李鉄拐―りてっかい―
遥か昔、一人の道士が西嶽という険しい山を登った。
その者は姓を「李」、名を「玄」という。
李玄は強固な精神力と体力があり、一人では余りあるほどの才をいくつも持っていた。今まで負け知らずで生きてきたが、人生がひどく退屈に感じたようで、少しも未練を感じることなく俗世を捨てるに至った。
山や林で独自の修行を積んで早七年。ある日、突然思い立ち、わずかな手荷物を片手に西へ向かった。ある噂を耳にしたからである。故郷から千里も離れた西嶽に、恐ろしい妖虎精が住んでいて誰も近づくことができないらしい。山に入った者は、誰であろうとその虎が食い殺してしまうそうだ。
これを聞いて、李玄は周りの者達に息巻いて言った。
「私にやってできないことはないさ。ここは一つ、力試しにその虎を退治しに行ってこよう」
当然、親戚や知り合いの者たちからは、散々諌められた。
その虎は獰猛ですでに何人も殺している。だが、わざわざ人里に下りて人を喰ったという話も聞かない。元々、人もめったに通らない険しい山の中の話。放っておけば済む事なのであるが、一度決めたことは曲げない性格の李玄は、皆の忠言を無視し、一人旅立って行ってしまった。
旅立って半年程立っただろうか、李玄は早く虎に相対したいばかりに一日も休まず歩いた。精気の満る身体で途中の山を軽々と超え、ようやく虎の住む西嶽の麓に着いた。山の頂上は濃い霧が立ち込め、妖気が空を覆い隠している。黄昏時に着いたため、流石に今から上るのは得策ではない。夜遅くに尋ねては虎も迷惑だろうと、その日は一晩そこで野宿することにした。
人の住むようなところはなく、虎以外にも野生の狼や熊も出てきそうな樹海のど真ん中。
しかし、李玄は平気だ。そもそもその程度で臆する性格ならここに来てはいなかったであろう。木の実など食べられそうなものを集め、寝る支度をしていた。ふと、竹藪の奥を覗きこんだ時、変わったものを目にする。
人の死体である。白髪交じりでぼさぼさ頭の薄汚い老爺。しかし野獣に食いつぶされた跡もなく、死んで間もない様子だ。左の足首がおかしな角度で曲がり、近くには老爺の杖と思わしき鉄の杖が転がっていた。
「足が悪いクセにこんな所まで来るなんて。この爺さんも俺と同じで相当の捻くれもんだ」
何気なくそう呟いて杖を拾おうとしたが、
「重っ......!!」
驚いたことに、力自慢であった李玄がどんなに力んでも持ち上がらない。
「こんな重い杖じゃとても歩けない......。あ、もしかして修行の為?この爺さんが仙人なら十分にあり得るぞ。だったらきっとまだ死んでない、本体はどこかにいるはずだ」
死体を見張るためにそこを寝床と決め、近くで護符を燃やし始めた。
その行為には二つの意味がある。一つは周りの獣達が近づかないようにする為、もう一つは仙人である老爺が、迷わないで体に辿り着けるよう目印を作ってやったのだ。李玄の見立てでは、大よそ六日前にこの体から魂を抜いたと考えられる。仙人が魂の抜けたままの体を維持できるのは、長くて七日。なので、今日・明日のうちに、体を取りに戻ってくるとみた。
「妖怪退治は一人でもできるが、その後のことは何も考えていなかったしな......。この爺さんに恩を売れば、住み良い仙境にでも案内してくれるかもしれない」
そのことが彼の命運を分けた。
後に分かる事であるが、彼の恐ろしい所は、その感の鋭さと強運、それから根拠のない自信である。
◆
翌朝になったが、とうとう老爺の魂が李玄の前に現れることはなかった。
一目会って挨拶をしたかったのだが、じっと待っていても埒があかない。仕方なくその場を離れ、襲ってくる獣達を蹴倒しながら山を登り始めた。
山頂まで何日も掛かるであろう高山でも、李玄の足は飛ぶように軽い。昼過ぎには虎の住む虎穴の前に着いてしまった。常人であれば足がすくみ上るほどの殺気も、李玄には全く効かない。強敵の匂いを感じて喜んでいるのか、口端を上げニヤリと笑った。穴の中に向かって慟哭する。
「おい虎よ!今や誰もそなたを訪ねて来ないから暇だろう。私が相手になってやろうか」
暫く待ったが返答はなかった。しかし虎がこの中にいるのは間違いない。
「なんだ私を見て臆したか、素直に出てくれば命だけは助けてやる!弟子にしてやってもかまわんぞ!」
李玄が無遠慮に巣穴へ踏み込もうとした時である。
穴の中から唸り声を上げ、岩壁よりも大きな虎が口を開けて飛びかかってきた。
まさに一瞬、圧倒的な力の前に反撃など出来ようはずもなく、李玄の視界は忽ち真っ暗になった。
「......まいったな、どうも今回はあっさり負けてしまった」
地上で虎に食べられる自分の死体を眺め、李玄は口惜しそうにつぶやく。彼は今宙にふわふわと浮いた状態、つまりは霊体になっているのだ。虎に襲われる直前、自力で体を脱した。長年の道士修行によって、李玄はこういった離魂の技をすでに会得している。その為、魂は無事だが、体だけを失うという中途半端な状態になってしまったのだ。
流石に困ってどうしようか考えを巡らせた末、ふと昨日の死体の事が頭をよぎる。
あれはまだ残っているだろうか......
勝手に人の体を奪うのは天規違反。
しかし、魂魄を体から離す術には、守らなけれなばらない体の有効期限というものがある。
もし、未だに魂魄が帰っていなければ、あの老爺も自分と同様、帰る体を失う羽目になるのだ。このまま放置されていては、もう二度と使い物になるまい。折角ならば、自分が譲り受けても構わないのではないか―――。
急いで来た道を戻り、死体の様子を見に行ってみると、果たしてそのままの状態だった。李玄は老爺に代わって、その体の中に魂を寄せた。
◆
一方、虎は李玄の体を骨ごと砕いて丸呑みしてしまった。
「またつまらぬものを食べてしまった......」
手についた血を舐めながら、雌の妖虎は深いため息をこぼす。
「まあこれでしばらく、私を倒そうなどと考える馬鹿が来なくなるだろう」
最近では珍しくなったが、昔は来る者来る者全てが、彼女の命を狙ってきた。妖虎はこの山に入る者たち全てが信じられず、少しでも敵意があるとみなせば牙を向いて襲いかかる。そうしなければ、安心して暮らせる住処がない。こうして悪評が立てば立つほど虎は喜んだ。例え孤独でも、安心して暮らせる方が大事だった。あの頃の〝私〟はまだ若く、皆が慕ってくれるような「西王母」ではなかったのだ。
しかしその平穏も、その日を境に終わってしまう......。
「おい虎!さっきはよくも私の体を食べてくれたな!」
鉄の杖を突き、命知らずの馬鹿が、再び虎の目の前に現れた。先ほどの失敗で心が折れるどころか、眠っていた彼の闘争心に火がついた模様。以前よりも小柄で脆弱な体になったというのに、そんなことは全く関係ないと言いたげに再戦を申し込まれた。それだけで相当ウザいのだが、李鉄拐の執念は常軌を逸しており、虎は多大なる被害を蒙った。この男の本当の恐ろしさに気づくことができなかったのが悔まれる。
後に痛感することであるが、先に言っておこう。もし、李鉄拐に勝負を挑まれたら、決して勝とうと思ってはいけない。自分が負かされた日には、地獄の果てまで相手を追いかけ回すようなしつこい男なのだから――――。
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